小説風

六義園のしだれ桜と、建築学科の思ひ出

六義園のしだれ桜

 

昨日3月27日、仕事の後職場の人たちと六義園の桜を見に行った。職場から50分位かかった…。

なんでも六義園のしだれ桜は1本だけれども有名らしく、平日の夜にも関わらず人が沢山いた。

 

月と桜がちょうどいい感じで納まった!

駒込の駅からすぐに入ることができるのは正門ではなく、南側に5分ほど歩くと正門があるので、そちら側から入る。しばらく歩くとライトアップされたしだれ桜が堂々と鎮座している。

桜を見るとその瞬間、大層咲きほこっていてもやがて散る運命にあることが連想され、どこか儚げな印象を受けるものだ。

日本人の死生観や、無常といった思想は、ともすればこの桜の生き様からきているのではないか?とさえ思った。

 

 

六義園と僕と建築学科の思ひ出

 

さて、六義園は学生時代に一回だけ訪れた事がある。その頃の僕はバイトをしながら建築の勉強に勤しんでいた。

もっとも当時(今はどうか分からないけれども)の建築学科は「夢を語り、表現する」という青臭い場であり、実務的な部分は勝手に勉強しておけ、という雰囲気であった。僕はそんな執行猶予期間、所謂モラトリアムが無限に続けば良いな…などと思いながら、ドローイングを作成したり、模型を造ってみたりした。しかし、殆どがうまくいかない場合が多かった。ひとえに才能が無かったのだ。

ある日、設計演習という名物授業で、「土地を選択して、そこに楔を打ちなさい」というような意味の課題が出された。原文が英語だったので忘れてしまったが、多分そのような意味だったように思う。

(設計演習は一週間に1回のハードスケジュールで課題が出される。回答に至るヒントというものがこの授業にはほとんど無かった。学生自らが、課題の意味を考えて自らコンセプトを決め、27cm×27cmのケント紙を何枚かに表現するのだ。時には模型だったり、塑像だったり、ビデオを提出したこともあった。)

そんな折、僕はアイデアが思い浮かばず、街という街をふらふらと歩いて駒込まで行き、なんとなしに六義園に入った。

江戸時代の大名屋敷は素晴らしい「気」で満ち溢れていた。池を中心とした日本庭園は山河を表現しているのだな、と思った。

池に映る築山や、空を見つめているうちに、アイデアらしきものが閃いた。この六義園の庭園にある池に、ガラスで出来た橋のようなものを掛けたらおもしろいのではないか?

当時の僕はその程度のアイデアしか出てこなかった。今思えば青臭いのも良いところであろう。「水」と「ガラス」。うん、ありきたりである(笑)
(尤もいま現在でも中二病ではあるがw)

 

早速、コーポラスに帰って鉛筆でドローイングを始めた。

 

ガラスでできた板と円柱

 

その装置を用いて六義園の池の真ん中にある島と、陸を結ぶ

 

うん、我ながら良い出来だ。これを提出しよう。

数日後の講評で、スクリーンに映し出されたものの、結果はAだったような気がする。確かA以上?はスクリーンに映し出されて、建築家の先生方が講評してくれるのだ。あまり取ったことが無いので分からない。

先生方曰く、「六義園である必要ないよね」「水とガラスってありきたりでよくあるよね」と散々だった。やはり普遍的でかつ意表を突いた「コンセプト」の重要性を身にしみて感じた。

今現在、建築の仕事をしているが、このような方面での頭の使い方は全然しない。兎に角目の前にある案件をこなすことだけだ。そこに大層なコンセプトも無ければ、壮大なゲージツ性なども皆無である。尤も、建築というものの本質は「技術」であり、「細々とした、泥臭い作業」である、というのもまた事実である。これを知ったのは不幸なことにモラトリアム期間が終わった、社会に放り出された後なのである。

 

ちなみに、数年前僕は半年ばかり無職で、その時に「ウェブデザイン」を無料で学んでいた(職業訓練というやつだ)。

 

ウェブページを作成するために、自分の作品の一部を載せたページがあるので超ヒマな人のみ見て下さいw

http://iijima-jk.heteml.jp/webcreative/d/1301/miyagawa/works/site/index.html

 

 

 

 

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