小説風

下書き

モルフォ蝶1

ガウディが嫌い、ミースが好き

学生時代、僕の学校に「アントニオ・ガウディマニア」とも言って良いガウディの権威であるA先生がいた。人格者であり、大変熱のこもった先生であった。この先生がガウディのサグラダファミリアや、グエル公園の良さを力説するのだが、僕はいまいちガウディの建築が好きになれなかった。

「なぜ好きになれないのだろうか?」

僕は考えてみた。まず、前提として、「なぜそのようなカタチになったのか?」が示されていない、曖昧であるという点。

建築学科に入ってからというもの、バカの一つ覚えのように「コンセプト、コンセプト…」と聞かされていたので、ガウディの建築はそこにコンセプトが存在しない、或いはコンセプトはあるかもしれないが、基本的には「自分の思い描いた世界を短絡的にそのまま現実に投影しているだけ」なのではないのかと。

勿論、ガウディの建築は、「フニクラ」と呼ばれる逆さ吊り模型を使用して柱のカタチを決めていたというのだから、「自然」という要素を取り込む、合理的な建築物、という説明もできよう。しかし、その成果物をみていると、やはり「作家性」というか「手垢」が強調されてしまっているように思える。こういう建築は学生時代の僕には「NG」として叩き込まれていた。にもかかわらず、ガウディが認められているのは腑に落ちなかった。建築学科の教育は二枚舌なのではないかと。

ガウディの建築には些か失礼な言い方ではあるが、ディズニーランドやUSJといったテーマパークに近い「安っぽさ」があるような気がしてならない。順番としては逆だろう。ガウディがそのようなテーマパークの建築の道を切り開いたのであろうか?勿論、実際にスペインに行ってサグラダファミリアを見たら感動すると思うが…進んで行こうとは思わないということ。

 

これに対して僕は「ルードウィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ」の建築が好きだった。バルセロナ・パビリオンの静謐でミニマリズムな建築、X軸、Y軸、Z軸に従順な数学の奴隷。現代建築の礎である鉄、ガラス、コンクリートによる表現。ガウディに比べるとゴチャゴチャしておらず、非常にシンプルである。

 

 

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いきなり余談ではあるが、上の記号の羅列に関して、どちらが好きか?を選ぶと文系か理系かが分かる、という診断テストがある。真偽の程は不明であるが、上の図を選んだ人間は文系、下の図を選んだ人間は理系、とのことである。そもそも理系文系に分けること自体ナンセンスではあるが、あえていうならば、「ガウディは文系、ミースは理系」と言えないだろうか?

僕は理系の学科だったものの、「建築学科」であり、これは純粋に理系とはいえない。そもそも僕自身がそれほど理系科目が得意なわけではなかった。理系に対する「憧れ」はあった。単純で整理されているものに対する憧れが僕を「ガウディ嫌い、ミース好き」の思考にしたのかもしれない。僕が持ちえない要素を持っている、そんなものに憧れていたからなのかもしれない。

 

一見二枚舌の建築学科での教育

閑話休題、「手の痕跡」という課題が「設計演習」という授業で出題されたことがある。「手の痕跡が分かるドローイングを提出しなさい」という課題。

当時大学には非常に絵の巧い助教授がおり、その先生が学生時代に描いた「電柱」の鉛筆によるドローイングがスクリーンに映し出されたのを見て、まるで写真のようだったのを驚嘆した。幾人かの学生は「写真でしょう?」と囁いていた。

「このような感じで、手の痕跡が分かるドローイングを来週提出して下さい」

僕は疑問に思った。超リアリズムな絵には果たして「手の痕跡」など残っているのであろうか?と。

と同時に一本一本の線が、全て鉛筆の濃淡、筆圧の強弱で綿密さを持って構成されているという事実には間違いなく極限まで研ぎ澄まされた「身体性」=「手の痕跡」が見て取れるのだ。

一週間が経ち僕が提出した絵は下のようなものだった。

勿論、評価はBであった。僕の現実解析能力ではこれが限界だった。描いたものの「対象」の選び方も脈絡がなくて良くなかったのであろう。

 

さて、そのような建築学科ではあったが、前述した通り教授陣は「コンセプト」を連呼していた。「お前、どうしてそのカタチになったの?」「この建築のコンセプトは何?」等々。これらは「何となく」では決してならず、言語化して表現する必要があった。

一度、僕は仲間と一緒に大通りに面したメディアラボを計画したことがあった(実際に建てるコンペ等ではなく課題の一環として)。僕らは一生懸命に鉛筆でドローイングをした。真っ直ぐな道路に面しているので人々が入りやすいようにファサードは波のように曲面にしよう。日本建築の持つ、「縁側的な内と外の緩やかな境界」を実現しよう。こんな具合である。青臭い、懐かしい思い出である。

ちなみにそのプレゼンテーションではある毒舌キャラの建築家にクソミソに言われた。「波のようにと描いてあるけれど、そのまま波々なファサードにした非常に短絡的な陳腐な計画だよね」と怒りながら一蹴された。僕らは恥ずかしい気持ちで他の学生の前で突っ立っていた。今思い出してもムカムカするが、しかしながらこの教授の言ったことは理解できる。確かに僕たちの計画は短絡的なのだ。

 

さて、上記のように建築学科では互いに相反する「アンビバレント」な要素を教え込もうとしていたような気がする。一つは「手の痕跡」に見るような独自の「主観性(作家性)」、もう一つは「コンセプト」という言葉に代表されるような、出来得る限り主観を排除した「客観性」である。僕はこの二つを「アンビバレント」なもの、と捉えていた。実際にそうであろう。

今となって色々な建築や、芸術作品を見てきて気づいた事がある。

『素晴らしい作品というのはこの「主観性」と「客観性」が高次に融合してできるものであること』を。

 

 

ミースの主観性〜石山修武の言説より

 

開放系技術論11
 何度目かのバルセロナ・パビリオン訪問の朝、その日はパビリオン床下のメンテナンス工事の最中であった。トラバーチンの床が一枚外されて床下に闇がポカリと顔をのぞかせている。そうか、石の床が取り外せるように設計されているのかと気付く。床の下に潜り込んでみる。誰もとがめる人はいない。床下の闇に這いつくばって入り仰天した。床下の闇と思はれた地面には細い光が格子状に写し出されているではないか。〜中略〜これ等の床下に秘められた様相は決して合理的と呼ばれる精神の働きからのみで、生まれるものではない。

石山修武研究室より

上記引用は僕の嫌いな(笑)石山修武氏によるものである。端折って書くと、ミースのバルセロナ・パビリオンには当初トラバーチンの隙間から上の方に向かって投光器で格子状にライトアップをする計画があったとのこと。それに対して石山氏は「合理的精神のみで生まれるものではない」と語っている。

僕はこの文章がとても好きで気に入っている。ミースの建築は一見「合理的」で「客観的」であるが、このような「仕掛け」を知ると、益々ミースの建築に「愛着」に近い何かを感じるのは何故だろうか?

一見「客観性」を纏ったモノにさりげない、僅かな、微小な「主観性」を見出すのはとても新鮮で、そしてそのモノの「奥深さ」を知ることになる。秘すれば花なり。

 

 

落合陽一氏の作品に見る非合理性

前置きが長くなってしまったので、本題はあっさりと。5月4日、僕は落合陽一氏の個展を見に、原宿のジャイルまで行ってきた。GWだというのにすることが無かったからだ。

落合陽一氏についてはここでわざわざ語らなくてもよいであろう。

落合陽一  職業:メディアアーティスト、研究者、大学教員、実業家
https://ja.wikipedia.org/wiki/落合陽一

僕は最近仮想通貨絡みの情報から、この人の本が売れていることや、メディアに登場しているのを知り、「一体、現在の若い人々はどんな事を考えているのだろう?」と疑問に思い、メディアアーティストとしての落合陽一氏を偵察しに行くことにした。なお、落合氏の書籍等は読んだことが無い。先入観無しで偵察してやろう、と思った。

展示は無料で見れる、という事も理由の一つとしてあったが、やはり自分は最近、新しいものに鈍感であり、かつ故意に受け付けなくなっているので、そういった「頭の中のサビを落とす」という意味合いで久しぶりに展覧会を見に行ったのである。

場所は原宿の「GYRE(ジャイル)」。オランダの建築集団であるMVRDVの設計した建物の中である。

展示室に通じる小さなドアを潜ると、それは一言で言えば「テクノロジー」の静謐な空間だった。

落合陽一氏個展Levitrope

 

「Levitrope」

上の写真のような装置があった。大きな石臼のような金属製の台座が回転しながら、更にその上に鏡面仕上げの球体が宙に浮遊しこれまた回転しながら廻っている。さながら太陽(恒星)を中心に自転しながら廻る惑星のイメージ。

不思議な装置だった。電磁石を使っているのだろうか?新しいテクノロジーが人間単体ではなし得ない「浮遊」を実現する。

僕はこれを見た時に、単に「凄い技術だな」「面白いな」位にしか思わなかったが、今こうしてブログを書いていると何となくこの装置に対する「哀愁」のような、或いは「コケティッシュ」なイメージが想起された。球体は最新の注意を払って磨かれ、台座も非常に滑らかに、スマートに回転しているにも関わらずだ。

この装置は、「人間が電気を送ることを止めなければ、永遠と同じ運動を繰り返している」と考えると、実は最先端の技術や機械という「装置」が持つ「お茶目さ」「バカバカしさ」(落合陽一氏のファンの方すみません…)みたいなものが垣間見えて、非常に愛着が出てくる事に気づいた(余談だが、学生時代の設計演習でも「装置」という課題が出されたことがあることを思い出した)。

この「装置」が人類滅亡後も残っていて、荒れた荒野にその像を映しながら何万年も浮遊しながら回転し続けていたら?そんなシュールな光景が目に浮かんだ。恐らくは宇宙人がそれを発見するであろう(笑)。「ははは。ローテクだな!」と宇宙人は言うかもしれない。人間が古代の廃墟を発見する時のような眼差しを持って。しかしながら幾分宮崎駿の「天空の城ラピュタ」の巨神兵のごとく、その姿は哀愁に満ちている。

 

 

 

モルフォ蝶1モルフォ蝶
モルフォ蝶2モルフォ蝶

 

「モルフォ蝶」

これは自然を機械によって再現する、という試みのようだ。上の写真は動かない、標本であるところの「本物のモルフォ蝶」。そして、下の写真は「電気的な仕掛けを持った動く偽物のモルフォ蝶」。生⇔死、静⇔動、自然⇔テクノロジー、本物⇔偽物といった対比。

面白いのはそういった属性が簡単には両者に振り分ける事ができないこと。

生きているモルフォ蝶は動いていたが、死んでいるモルフォ蝶は果たして本物と言えるだろうか?我々は「動物≒動くもの」と定義したならば、本物のモルフォ蝶は寧ろテクノロジーによって繊細に再現された、今その瞬間に動いている下の写真の側ではなかろうか?

このような視座に立つと、作品解説にもある通り「人為と自然との差があやふや」になる。

最近、人体や脳を冷凍保存するプロジェクトがアメリカあたりにあるという情報を耳にしたが、そのような時代に於いて、このような問題提起、コンセプトは非常に面白く感じた。

また、この作品に於いても、上記の作品同様にある種の「装置感」が滲み出ており、面白さの中に潜む「哀愁」を感じた。

 

 

壁に描かれた説明コンセプト

 

他にも色々と作品があったが、このブログではこの辺にしたい。最後に上の写真はこの展示場の入口の壁に書かれていた言葉である。ここで僕が注目したワードは「工業社会のヴァナキュラー性」という言葉。ヴァナキュラーとは「その土地独特の」といった意味で、よく建築物を指して使用される。「土着の」という意味である。つまりこの個展の展示は「工業化社会」そのものではなく、その中の「一部の地方」を現しているということであろう。

それは工業化社会の中にある「ニッチな、合理的でないモノ」という意味かもしれないし、落合陽一氏の「手垢のついた村」という意味合いなのかもしれない。

これらの展示物や装置には、やはりある種の「合理性を欠いた、どこか非合理な要素」を内在していた。「テクノロジー」という言葉、及びそのスマートな装置に巧妙に隠されてはいたものの。誤解を恐れずに言えば「愛すべき、人間臭いマヌケな機械たち」。

そして僕はその潜められた「手垢のついた村」を探すことが出来た気がする。これは素晴らしい作品群であったと思う。

 

追記:(当初の予定では落合陽一氏をディスるつもりだった。若者はやれテクノロジーだ、ITだAIだ仮想通貨だ…と騒ぎ立てるが、少しは自然に出ていって、太陽のもとで自然に触れ合いなさい!勤勉に働きなさい!と。
しかしながら真面目に「現代」に向き合っていなかったのは寧ろこちらの方であった。実際に展示を見てみる、という事はとても重要なことである)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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